「子供が大きくなり、結婚して、家に夫婦二人きりで暮らすようになって年月たった。そんな夫婦が毎日をどんなふうに送っているかを書いてみたい」(「庭のつるばら」あとがきより)
そうして始まった、庄野潤三のいわゆる「晩年シリーズ」。最晩年まで、年1冊のペースで出版されていて、今回読んだ「せきれい」と「庭のつるばら」がそれぞれ3、4冊目となる。
『せきれい』 庄野潤三 (文藝春秋 1998年)
『庭のつるばら』 庄野潤三 (新潮社 1999年)
かわらぬ、おだやかな日々。
そんな中で、孫たちは成長し、自分たちは少しずつ老いていく。
庭には小鳥たちが訪れ、植物は花を咲かせる。
門燈。
ピアノのおけいこの日のこと。妻がおけいこに行っている間、図書室の窓ぎわのベッドで昼寝していた。五時前になり、もうそろそろ帰るので、起きて玄関へ行き、門燈をつける。その前に台所の電燈をつける。うらの通り道に明りがさして、妻が歩きよいので。 そこへ妻が帰って来た。
「ひらき戸開けようとしたら、ぱっと門燈がついたの」
という。間がよかった。
(「せきれい」より)
くちなしと山百合。
妻は庭へ出て行き、くちなしの咲きかけの蕾を一つ切って来て、書斎の机の上に活ける。
「きれいですね」
「きれいだなあ」
といって、二人で眺める。
長女が、持って来て庭に植えてくれた足柄山の山百合も浜木綿のよこで咲いた。書斎の机の前から三つ咲いているのが見える。
(「庭のつるばら」より)
なんでもないことなのに、読んでいて涙が出そうになる。
・・・どうなってる、自分。
毎日毎日おだやかなことばかりではない。
でも、ここでは不穏なものは削ぎ落とされている。
言葉、内容はきびしく取捨選択されている。そこに強いこだわりを感じる。
これは日記ではなく、やはり小説なのだ。
「小説は何かの思想や理念を表すものではなくて、わが手でなでさすった人生を書いてゆくものでしょうね」
中学時代の恩師で詩人の伊東静雄が庄野に語った言葉。
夫婦が毎晩ハモニカを吹き歌をうたうように、僕は眠る前に庄野潤三を少し読む。
いろいろあるけど、このときは間違いなく幸せな時間である。
・・・どうなってる、自分。
いやいや。
江國香織も書いてたけど、庄野文学には強い中毒性があるのです。
繰り返し同じ内容が語られるのをうざく思うかもしれないけれど、
それもだんだん快感になっていくのです。
いちど、おためしあれ。