『へっぽこ先生 その他』 永井龍男 (講談社文芸文庫 1990年)
神田で生まれ育ち、鎌倉に長く暮らした永井龍男。
古本屋で見つけると、つい買ってしまう。
随筆も小説も、劇的ではないが、「確かな生活」が感じられる。
井戸さらいと云って、二年に一度くらいか、五、六人の人夫がきて、底の底まで水をかい出し、大掃除をした。春先の行事であった。一人が井戸に入り、合図のかけ声共々他の人足が外で綱を引くと、水をいっぱいにした釣瓶が上がってくる。井戸端へそれを流すと、ふたたび釣瓶は井戸の中に返される。そんな悠長な作業を繰り返すうちに、何時間かすると井戸はからからになり、新しく湧き出す水が、きらきら底で光るのが見えるようになる。
人夫のかけ声は威勢がよく、祭りのような賑わしさで、去年誰々が落としたどんぶりが上がってきたり、金魚が大きく育って掬い上げられたとか、子供たちも大はしゃぎした。井戸端をあふれた水が流れを作り、折りからの落花を遠くまで運ぶ風情を、私はいまだにおぼえている。すっかり井戸さらいが終わると、横丁の総代がお神酒を供え、柏手を打った。井戸端の周囲は、いつも清潔にして置かぬと、井戸神さまのたたりがあるとも云ったものだった。みんなの、大事な水であった。(「井戸の水」昭和54年 より抜粋)
何ということはないようでいて、情景が浮かぶ。
こういう文章を書いてみたいなぁ、と思う。
とても書けないなぁ、とすぐに思い直す。