店、料理屋、たまに「家」
2008年 12月 24日
獅子文六とか吉田健一とか内田百鬼園とかの
大正~昭和初期あたりに書かれた随筆を読んでいると、
食べ物やさんのことを記すとき、
時おり「家」と表されていて、それを目にするたびに
なんだかわからないけど、いい気分がする。
彼らの文章の中でも、たいがいは「どこそこの店」とか
「その料理屋は・・・」とか書いてあるんだけど、
たまに
「○○亭という家があって、そこでは旨い鴨料理を食わせてくれた」
とか、
「そうかも知れない。きっと、ウマいぞ、あの家は」
なんて文章があると、懐かしいような、でも味わったことがない
感覚を憶える・・・いい気分がする。
東京の牛鍋やだったりパリのビストロだったり、神戸の怪しげな料亭だったり。
日本でも外国でも、今から7、80年も昔だとビルに入っている店なんて
ほとんどなくって、だいたい一軒家での商いだったのは想像にかたくない。
だから自然と「あそこの家は」という表現になるんだろうな、とも思うけど。
でもそれ以上に、お店とお客との距離感だったり、
外食に対する今との感覚の違いとか、
・・・うまくいえないけど「いい時代っぽいなあ」というのが
料理屋を「家」というのから感じられるんだなぁ。
通う方も敬意を払いつつ親近感もありそうに思えるし、
お店側でも「馳走する」という気持ちが感じられるような。
甘く勝手な懐古趣味かな、と思いつつ。
時節がらワインなどグビリとのみつつ。
チキンもいちおうたべてみました。
・・・食いしん坊まるだしの話題がつづくなあ。