JJ日記 1945&1970
2012年 05月 03日
掃除自体は台所以外まだ全然終わっていないのにな。
天気も悪いし、引き出しとかチマチマ片付けつつ引きこもり。
あとは録りためてた映画をみたり、本を読んだり。
フランキー堺が地方支局勤務の新聞記者を演じる『地方記者』。
山口瞳原作のエッセイ風小説を岡本喜八が斬新に撮った『江分利満氏の優雅な生活』(小林桂樹がやっぱりイイ!)。
そして小津監督の喜劇タッチの『お早よう』。ストーリー以外、人の動きや色づかいでの遊びごころも楽しい。
どれも見応えあり。
本は、晶文社の植草甚一スクラップブックから「植草甚一日記」。
1945年1月から8月15日までと、1970年1年間の日記を収録。
驚いたのは、植草さんが敗戦直前まで洋書を買いあるき、読み漁っていること。
また、当時植草さんは新宿文化劇場という映画館の主任だったのだけど、外国映画が全面上映禁止になるのは1945年7月27日。敗戦のわずか20日前だ。
かなり厳しい統制が敷かれていたと思い込んでいたので、意外だ。
う~む。実際、当時の生活はどんなだったんだろう。
日記は一日数行の簡潔なもの。
戦況や、誰と会ったか、そして買った本や読んだ本のメモなど。
3月と5月の大空襲のあとも淡々とした記述がつづく。
自宅が全焼したことも一行「一時頃永田町の自宅烏有に帰す」とあるのみ。
その中で例外的に自分の心情をあらわした部分が強く印象に残った。
「空襲が弛かんすると、人情にヒビが入り出す。その例を2,3みて悲しめり。」
(1945年5月13日)
「空襲を受けることは皆の本商売の様になった、ないとその合間に感情のもつれが露骨になる、あるとそれが消滅する、戦争のつづく限り、適当な空襲が必要になってしまった。」
(1945年5月19日)
時を経て1970年の日記。植草さんは還暦を少し過ぎた頃。
宝島などでの「植草ブーム」前夜。
とはいえ、平凡パンチやスイングジャーナルを通して既に多くのファンがいた。
原稿執筆の傍ら、散歩と称した古本や雑貨漁りの日々。
1度の散歩で少なくて数冊、たいがい数十冊を仕入れる。
散歩の合間に仕事をしている、としか見えない。
じっさい植草さん自身もそう思ってたんじゃないかな。
自宅があった経堂から下北沢、三軒茶屋、三宿あたりを歩いたり、今はなき銀座の「イエナ書店」とかにももちろん通いまくっている。
昔、イエナで白いスーツを着た植草さんを見かけたような記憶があるのだけど、氏が亡くなったのは1979年、僕が12歳の時だ。その頃イエナに行ったことはあったと思うけど、植草さんのことは知っているはずがない。自分の空想と思い出がゴッチャになってしまったんだろう。
年とると、こんなことが増えていくんだよなぁ。
そして、部屋の片付けは遅々としてすすまない。