玉葱
2012年 12月 03日
家の食材がさびしくなってきても、「オイラは当分元気ですけど・・・」 と台所の隅でひっそり佇んでいるのは玉葱やジャガイモだ。 ジャガイモは蒸かしたり煮物だったりで時として主役をはれるのにくらべ、玉葱はいまひとつ華がないというか、地味な役まわりなことが多い。もちろん色々な献立に欠かすことができないスーパー・サブなんだけど。そうそう、新玉葱の時期には丸ごと煮たら美味しいし、今の季節にはオニオングラタンスープがある・・・でも、手間かかるし、それ以前にうちにはオーブンもない。
台所の籠の中に玉葱しかなくて、冷蔵庫もスッカラカン・・・そんなことになったら、たまらず近所に買出しに行くか、あるいは自炊をあきらめるか、ということになってしまうのだろうか。 ちょっと可哀想な存在。
でも、そんな玉葱が愛しく思えてくる文章がある。
明治の終りごろ。岡山出身の作家・内田百間がに東京帝大に入って、いまの文京区白山あたりに部屋を借り、近所のお婆さんが身の回りの世話をしてくれていたときの話。
「路地に近くなると、その辺まで何とも云われないおいしそうな御馳走のにおいがにおって来る。西洋料理のにおいである。路地の暗い道にその香りが流れている。」
「路地いっぱいに堪らないにおいを漂わした御馳走は、玉葱のあぶらいためである。あぶらはヘットかラードか知らないが、それにソースをかけて賞味する。ソースは容器の瓶は本物のウスターでレッテルもその儘であるが、中身はおばさんの自製で、酢醤油に七味唐辛子と胡椒を入れて煮ただけのインチキソースだが、それでもうまい。そうして御馳走はそれだけで、外になんにもない。玉葱は肉に添えたのでなく、玉葱その物だけの御馳走である。」
(内田百間 『壁隣り』 より。 ちくま文庫 「内田百間集成19 忙中謝客」 収載。)
あの、玉葱をいためる甘い匂い、そして鍋にソースを入れたときのはじけるような音。。。
玉葱は、輪切りだろうか、櫛切りだろうか。。。どっちにしても、たまらんっ!
たしかに、ほかにおかずがなくとも、空腹時にはご飯がすすむ立派なご馳走になることでしょう。
・・・いつか書いたな、この話。とおもったら、やっぱりあった。。。ま、いいか。
では、もひとつ。
阿佐田哲也の名前でも知られる作家・色川武大(1929~1989年)。
彼の知人の古い俳優・コメディアンの老人の話。 普段は仙台で楽隠居の身だが、ちょくちょく東京にやってきては知り合いたちの部屋に居候している。七十で糖尿病で、肝臓も心臓も患っていながら、ウイスキーの一本くらいは毎晩軽くあけてしまう。酔って朝方にタップダンスを踊りだしたり。あのエノケンよりさらに一回り小さいことで売り出したという、ほんとに小柄な体躯である。元気で破戒を怖がらない老人だが、大食だけはしない。
「ある日、散歩の帰りに、彼が玉葱を一つ買ってきた。
『八百屋の前を通ったら、玉葱がうまそうだったんでね。よし、今夜はひとつ、玉葱を喰ってやろうと思って』
それでその一個の玉葱をうすくきざんで、フライパンで炒めて、皿に盛って喰った。彼の夕食はそれだけ。
ところがそれが、なんともヴィヴィッドで、かわいくて、貴重なものに見えて、生唾がわくほどうまそうに見えた。ああ、こういう食事というものがあるのか、と思った。
それ以来、小食の食事というものに、なんだか憧れている。」
(色川武大 『大喰いでなければ』 より。 光文社文庫 「喰いたい放題」収載。)
これも頭に映像や匂いが浮かんでしまう。
「よし、今夜はひとつ、玉葱を喰ってやろうと思って」 というセリフが良いではないですか。
一個の玉葱と向かいあう感じが出ていて。 食材への慈しみも伝わってきて。
そして、食べることが生につながっている、というのをあらためて意識させてくれるようで。
凍えるような師走の夜更けに部屋にもどってきて、玉葱しかないような事態はできれば避けたいけれど、もしそういう時があったら、なんとかしてその玉葱を美味しく大事に食べてやろうと思う。