随筆と私小説。
その違い、よくわからない。
事実に即していながら、多少のフィクションも入るのが私小説?
でも、まったくのノンフィクションな私小説もあるだろうし、
随筆だからってすべてが事実とはかぎらないし。
どうでも良いといえば、どうでも良い。
「私小説」と聞くと、「赤裸々」という言葉がうかぶ。
自分のみならず、家族や知人の、本来は秘匿しておくべき事柄を世に晒すような。
身勝手だったり自堕落だったり刹那的だったり。
・・・イメージだけど。
でも、小沼丹や庄野潤三の文章を読むとなんとも落ちついた気分になる。
食後においしいお茶をいただいているような気分。
こういう私小説ってのもあるんだ・・・。と、よくわかっていないなりに。
日々の暮らしのまわりについて淡々と書かれている。
ふんわりとしたユーモアがある。
簡単に書かれているようだけれど、語句は厳しく吟味されているように思う。
過剰を排し、削ぎ落とされた美しさというか。
庄野潤三は先月から、小沼丹は今月になって、少しまとめて読んでいる。
ふたりは友であり、井伏鱒二という共通の師がいる。
『小さな手袋 / 珈琲挽き』 小沼丹 (みすず書房 2002年)
小沼の没後に庄野が編んだ随筆集。ふと目にした景色、酒場で会った人、旅先の思い出。どうってことない話のようで、読んだ後に何ともいえない余韻が残る。不思議とすぐに読み返したくなる。
『貝殻と海の音』 庄野潤三 (新潮社 1996年)
夫婦の晩年を書いてみたいと思って始められた日記のような私小説。シリーズ第一作。同じような毎日でも、まったく同じ日はない。多摩丘陵・生田に暮らす夫婦。孫たちの成長に喜び、季節の移り変わりをたのしむ。おだやかで感謝に溢れる日々。
『ピアノの音』 庄野潤三 (講談社 1997年)
シリーズ第二作。庭に咲く花や訪れる小鳥たち。頻繁におすそわけしあったりするご近所づきあい。夕食後、夫のハーモニカに合わせて妻が唄うのだ。なんて素敵な。
『せきれい』 庄野潤三 (文藝春秋 1998年)
シリーズ第三弾。今年も季節はめぐるのだ。孫たちが少しずつ成長している。続けて読んでいると他人のような気がしなくなってくる。なにかにつけ、描写がこと細やかなのだ。庄野家の出来事がなんでもわかったような気になってしまう。
『椋鳥日記』 小沼丹 (河出書房新社 1974年)
小沼丹のロンドン滞在記。というか私小説なのか。1972年、早稲田大学の在外研究員として半年間暮らした。娘さんと一緒に。なんの研究かはわからないけど、ビイルを呑み、あたりを散歩し、知り合った家族らと食事したり、たまには遠出をしてみたり。ロンドンではあるけれど、日本のそこらへんの町にいるのと変わらない感じで書かれてるのがかえって面白い。部屋から見える「老人の家」のこと、孫煩悩な床屋の親爺のこと、スモークサーモンがおいしいレストランのことなど。じんわりくる。
『清水町先生 井伏鱒二氏のこと』 小沼丹 (筑摩書房 1992年)
小沼丹が師・井伏鱒二のことを記した文章をまとめたもの。随想であったり、全集の解説だったり。ふむふむと読む。井伏鱒二。何冊か読んだけど、今度じっくりいきますか。
あ、上の画像に一緒に映ってるもう一冊は、趣がずいぶん異なりまして。
『葉山日記』 吉田仁 (かまくら春秋社 2002年)
マガジンハウスの編集者だった著者の1992~2001年までの日記。仕事の話はほとんどなし。銀座で呑み、終電に飛び乗り、逗子や鎌倉で呑み直して、葉山にタクシーで帰るという日々の記録。休日は葉山を散歩し、そして呑む。葉山では今夏亡くなった詩人・奥成達氏とつるんでいる。人と会っては呑む、の繰り返しが淡々と記されているのだが、なぜか読み出すとやめられない。酒が出てくればなんでもいいのか。いや、その奥に何かがあるのだ。何かが。