今年もまた「いのち」のこころだァ
2017年 08月 15日
私は昭和ヒトケタ生まれです。あの時代は、実は戦争前夜だったのですが、子供にとっては平和な毎日でした。小学生、中学生の頃は戦争のまっ只中。軍国少年としてはやがて軍隊の学校へ。そして間もなく敗戦。焼け出されの丸裸の青年時代を焦土にすごし、そして平和日本を働き抜いて、いま、その平和に、なにやら不安を感じております。
激動の昭和から平成へと生きて、私、つくづく思いますことは、この世の中、ものの善し悪しは、なかなかオイソレとは判定しにくいもの、という実感ですが、しかし、そんななかで、たった一つ、これだけは、と確信の持てたことは、人間の「いのち」は何にもまして尊いということであります。
けれどもこれは、幼少の頃から、♪ 海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍・・・で、てんから"屍要員"として育てあげられ、そして、紙一重の差で死なずに生きてこられた私たちであればこそ、「いのち」の大切さを身にしみて思うのかもしれません。この頃は「いのち」の尊重を痛感するあまり、蚊も打たずに逃がしたりして、しかしこれは一種の老化現象かな、なんて思ったりしていますが・・・。
じっさい、何が「いのち」を粗末にするといって、戦争ほど、人間の「いのち」を軽く見るものはなく、もう無残にも「いのち」は踏みつぶされ蹴散らかされるのです。
でも、そのことに、私たちは、あの戦争に負けた時に、はじめて気がついたのです。あの時、不思議と頭の中がスーッと澄んで、モノが実によく見えました。あれは、多くの「いのち」を失った代償だったのでしょう。私たちは、それまでの無知を恥じ、もうコンリンザイ戦争はごめんだと思ったものです。「戦争放棄」の憲法は、アメさんから押しつけられたにせよ何にせよ、あの時、日本人の皆が、ごく自然に、素直に、そうだ、それが一番いいと、心底、納得したことだったのです。
だから、世の中の、大抵のことは、何がどうなってもいいから、戦争だけはごめんこうむりたい、「戦争放棄」だけは守り抜きたいという、これが、私の人生で、たった一つだけ出た明白な結論です。人間、長い人生の間には、考え方も少しずつ変化するものですが、この考えばかりは変わりませんでした。
ところが、「喉元過ぎれば熱さを忘る」ですか、このごろ「憲法見直し論」がチラホラ顔を出してきて、私はとても心配です。いえ、見直しも結構ですが、第九条ばかりは、そのまま、そのまま、でありますよ。
「戦争放棄」は、政治に哲学がないなんていわれる日本が、唯一、世界に先がけて打ち出した、まことに先見性のある政治思想と思われるのでありまして、この、百年か二百年先の時代にツバをつけた新思想を、なんとか保持したいものです。世界の先頭切ってやっていることですから、そりゃいろいろ障害も出てきましょう。そこを何とかやりくりするのが先駆者のつらいところで、それを、ほんの五十年ぐらいで取り下げちゃいけません。
戦争は病気と同じです。病気はかかったらもうおそい。かかりそうになったら、でもおそい。それよりふだんの、かかる前の予防が大切だとお医者に教わりました。
戦争も、私たちはよく知ってますが、はじまってしまったらもちろんのこと、はじまりそうになったら、もう止められません。戦争のケハイが出ても、もうおそいのです。ケハイの出そうなケハイ、その辺ですぐつぶしておかないと・・・つまり、戦争は早期予防でしか止められません。しかも、その戦争のケハイなるものが、判りにくく、つかみにくいのです。戦争の反対は平和ですが、平和のための戦争、と称えるものもありますしね。いえ、おかしなことに、いつもそうなんです。あの戦争の時も、
♪ ・・・東洋平和のためなら、なんの、いのちが惜しかろう (「露営の歌」)
と、毎日歌って戦いました。ですから「国際貢献」「国際協力」「世界平和を守るため」というのも、こわいケハイです。 ♪ 国際貢献のためならば、なんの、いのちが惜しかろう・・・ということにならないように、なんとしても、予防しなくては!
私、ひごろ、澤地久枝さんを、わが世代の代弁者と思っておりますので、その著『いのちの重さ ――声な喜き民の昭和史』 (岩波ブックレット)から、次の言葉を引いて、この小文を止めます。
――「いのちの重さ」を確め、守ろうとするのは、かつて日本の政治によって、いかにも軽く扱われた日本人と他国の人々を考えるからです。
――「はじめにいのちありき」であり、最後に守らるべきものもいのちです。いのちに国境なしです。
愚考しますに、「はじめにいのちありき」を「国境」をこえて「他国」へ訴えることの方が、「国際貢献」ではないでしょうか。
(文藝春秋 『同時代ノンフィクション選集』 第七巻月報 1993年5月)
= 『話にさく花』 (文春文庫)
『せまい路地裏も淡き夢の町 小沢昭一百景 随筆随談選集2』 (晶文社) 収録