2015年 04月 18日 ( 1 )

枝豆は生意気だ

f0160346_1626673.jpg


『 枝豆は生意気だ 』   池田彌三郎  (昭和36年 河出書房新社)

 季節々々のたべものは、季節々々の行事の記憶に密着する。そら豆と夏場所の大相撲とは、今にからみあって、私の記憶を刺激する。
 そら豆のたべごろは短かった。小粒の、皮ごと何のさわりもなくたべられる時期が、まずあって、ほう、今年ももうそら豆が出たのか、と思っていると、夏場所のふれだいこが東京の下町の街々を回って歩く。プンとインキのにおう番付が、せいぜい十両ぐらいまでしか、知っていなければ読めない刷りものになってくばられる。(中略)
 それが、千秋楽にもならないうちに、そら豆のほうはたちまち一寸豆になって、おはぐろがクログロとして来て、もうたべられなくなってしまう。そら豆の季節はたちまちにすぎて、枝豆になってしまう。私は枝豆のあの小粒のくせに歯ごたえのコリコリしたところがきらいだ。もっともらしくて、こなまいきな気がするからだ。
 (「そら豆と相撲」より)

そら豆が好きすぎて、枝豆がシャクにさわる。・・・わかるような、そこまででもないような。国文学者、池田彌三郎(1914~1982)の随筆集。母校慶應義塾のこと、テレビ・ラジオ出演のこと、師・折口信夫のこと、生まれ育った銀座・築地界隈のことなど。

上に引用した「そら豆と相撲」のほかに、この本のタイトルにもなった「枝豆は生意気だ」というズバリな一篇もある。そら豆が短い旬をすぎて去ったあとに、「エヘンともっともらしい咳払いをしてしゃしゃり出て」来て、そのあと梅雨になっても川開きになっても居座りつづける枝豆。たべられもしない"さや"のまんま食膳にのぼってくるところも生意気。さやを取って、さらにもう一枚甘皮をはぐという手間ひまのかかる奴。 (甘皮を食べる人もいるが、あんなこなれの悪い甘皮を飲み込んでは、飲んだ酒があの袋の中にたまって、肝臓の働きをにぶらせるに違いない、などとおっしゃる)。そして、季節が長いのをいいことに旅館でも料理屋でもバーでもビヤホールでも、突き出しは枝豆にまかせて、安心しきっていると。

「つき出しに、サッと枝豆をつき出されると、二杯のところは一杯で、三杯のところは二杯で五杯のところは四杯で・・・十杯のところは九杯でやめて、ごめんをこうむることにしている。九杯飲みゃたくさんだ、などと言ってもらいたくない。あと一杯飲みたいところを、グッと枝豆をにらんで帰るつらさである。 まったく枝豆は生意気だ」

ふふふ。 ぼくは枝豆も好きですね。 そら豆は旬が短いのがいい。そら豆が何ヶ月もがんばってたら、あの香りも歯触りも鼻について飽きてしまうかもしれない。
[PR]
by hey_leroy | 2015-04-18 22:25 | books | Comments(0)